宇都宮木鶏クラブ
琴線に響く言葉
日々是好日 (ひびこれこうじつ)
【意味】
毎日毎日が無事で好い日であるという。(碧巌録)
6. 3. 1
大貫 祐一
【解説】
「好」という文字は、 母と子を表す二つの象形文字を組み合わせたものだそうだ。 子供を抱く 母親、 その姿が 「このもしい」 ということで、好き、好い、という意味になった。 そう考えると 「好日」というのは、 グッドとかラッキーとかのことではなく、 ラブリー、 つまり、 愛すべき日、 というふうにも受け取れる。
「愛すべき人」という言い方がある。 この表現は決して、整いきった完全な人を言うのではな い。 どちらかといえば、 欠点だらけだけれどどこかかわいげがあって憎めない人、という意味合 いだ。
雨の日もあれば、 風の日もある。 孤独に震える日もあるし、 落胆させられる日もある。 たぶん、 人生のごく小さな単位である 「日」は、ひとつひとつが赤ん坊のように無力で、 私たちに何もし てくれないのかもしれない。 その、 何もしてくれない 「一日」 を抱き上げて、 面倒だとか泣き声 がイライラするとか文句を言いつつもおむつを替え、面倒を見るとき、 赤ん坊が突然、 にっこり 笑ったりする。 赤ん坊の世話は辛く、 孤独で、 何の見返りもなく、 苦しみと孤独感から虐待して しまうお母さんもいる。 でも、 それでも、世話をし続けるとき、 何かが心に生まれる。 そして子 供も育っていくのだ。
【言葉からの学び 】
日々是好日、というのは、 毎日がいい日だ、 ということではなくて、 毎日が愛すべき 日だ、ということである。 辛くても面倒でも、とにかく一日というものを我が腕に抱き 上げて、 子供のようにその世話を焼いてやってはじめて、そこに意味が生まれるのだと 思う。
一般的にはこの言葉を 「毎日好い日ですね」 という意味で使っているが、実はこの「好い」と いうことが問題なので、 「好い」 「悪い」は、私たちの勝手な思い込みに過ぎないからだ。 お釈迦 様は 「昨日にこだわり、明日を夢見て、今日を忘れる」 人間の愚かさを指摘している。 禅の世界には接心というとくに厳しい修行がある。 一定期間いっさいお寺の外に出ることなく、 全神経を公案(禅宗に於いて悟りをひらくために師から弟子に与えられる問題)に集中して坐り 抜く修行なのだ。この修行を続けていると、だんだん五感が研ぎ澄まされてくる感覚となり、 た とえば、空気の微妙な湿りを感じて雨が降ってくるのがわかるようになる。 これは決して特別な 能力ではなく、心を落ち着かせることで、人間が本来持っている五感が鋭くなってくるのである。 これによって、ものの見方もまた転じてくる。 雨が降り続いて嫌だなあとか、暑い日が続いて嫌 だなあといった思いが、雨が降っても晴れても一日は一日、 今日一日を生きていることの有難さ が骨身に染みて気づかされるのであり、この心境が、 掛け軸や色紙でよく見かける言葉「日日是 好日」 なのである