宇都宮木鶏クラブ
二か年半、ご指導ご教授に感謝申し上げます。 御年九六歳、さらにご聡明明晰でいらして、私たちに とりましては、遠き彼方の時へ希望を感じております。 この度はご教示いただきましてありがたく御礼申し
上げます。
月刊雑誌「致知」は、特集方式により、主題を設けそ れに登壇者が自分の思い考えで答えるという特徴的 で、四五年間通してこられ、今や企業者のみならず、 一隅を照らすという方、スポーツ芸能、東洋の古典、 儒教、道教、仏教などを通して、登壇者も国内トップ
の活躍している方を招いております。
致知は、救済事業者ではないかと感じます。読書を通
して、書いてある口語文の中に、発見があり気付きが
あり、自分を通しての日常にいかに役立てられるか。 「致知」と出会い改めることにより、救われたという 方も登場します。
著者は、何を伝えたいか、そこから何を得られたか。
学ぶという観点からなら、その学びを行ってみる、実 践する試してほしいものです。自分とはどうかなど。 読後感想会は、それぞれの感想発表の中に、登壇者も 自分で気付かない著者の深い思いに出会うこともあ り、感じ方はそれぞれでもその奥に言わんとした秘め たるものの出会い発見に、それこそ琴線に響く言葉に なり、その時の感動は感即動、即行動に繋がっていけ ば、致知読書会の大きな収穫になると思われます。
「真理は現実の只中にあり。」森信三。理想を以って 現実に当たる。私の致知との出会いの最初の言葉です。 生き方探求人間学誌、致知こそ、先人先哲先賢の書と あれば、この上ない指南書と心得ております。 しかし、一度の読みでは、得られるものは走馬灯のよ う走り去り、書いてあるに留まり、二度目の読みでは 停まることがあり、理解難語を調べたり、三、四度く らい読むほどに真理が見えてくる。それは登壇者の思 いから馳せて、自分の境地に出会う。 ということになればよいのですが、願望です。 読後感想発表会が機能すると、真理が見えてきて、 自分に取り入れ、即実行、チャレンジをするものが現 れてら、致知の真の役割が果たせることになります。
「因果応報」の言葉につきましては、致知の中で発表 されますと疑心なく、受け入れてしまいますが、理解 (説明できるか)できないものは調 (燮)べることを 勧めております。 読後感想の発表するは、自己の理解 力、のちの気付きでもよろしいと思います。わかるか わからないかは、その説明が明解できるかできなかっ たかと自問すること、不十分不確かではないかと自覚 するようです。 因果は我々の人生において常に恒常的に日々瞬時に
ある。原因と結果である、原因があるから結果がある としたら、因の無い果はないこととなる。つまり、日 常に起り得ることでうまくいかないときなど、そのも とは己にあると感じながらも、他の所為にする、特によくないときほど、自分以外に原因を求める。いっこ
うに解決しない。他のせいではないことに気付かない
ない限り。
稲盛和夫翁の言葉です。仏教における「因果」の道理
を説くものでしょうか、
原因と結果、過去現在未来ともに一貫して変わらない
こと、因果の法則があるという。どんな結果にも必ず
原因がある。原因のない結果は絶対にない。
法則は、善因善果、自業自得、自因自果、善きことを
思い善きことを行えば、人生は好転する。 因果の道理
。。
は仏教の根幹の教えですと説いております。
運命は善き方向に変わっていく。 善きことの思いは、
万物を生成発展させる『宇宙の意思』に合致する。
森羅万象を生成発展させて行こうという意思がある。 全てのものを愛し、すべてのものを慈しみ、すべての ものを良かれと願うような想念を抱いたときには、宇 宙の波長と合い、人生に好転していくことに繋がる。 人間は本来「真善美」を求めるという。真・正しきことであり、善・善きことであり、美・それらが美しい ものである。人間はその探求をする心をもっている。 そのように人間が本来持つ、愛と誠と調和に満ちた美 しい心をつくっていくことこそが、私たちがこの生か されている人生をいかに生きていく目的ではないか と思います。
仏教的な思想では、魂は輪廻転生していくと考えられ るようですが魂は肉体を借りて、この現生に姿を現わ し、その肉体が滅びると同時に新たな旅立ちを迎え、 やがてまた肉体を借りてこの現生へと転生してくる。 死にゆくとき、生まれたときより少しでも美しい魂に、 やさしい思いやりに満ちた心を持った魂に変わって いなければ、この現世に生きた価値はない。つまり、 人生とは魂を磨き、心を磨く道場なのではないでしょ うか。
しかし、人間社会、そのように考え心を磨くと思って も、実際にはなかなかうまくいかない。自分にとって 都合いいか、得するかなどと行動してしまう。魂を磨くとは、そんなとき、モグラたたきするように悪しき 思いが出たときは、抑えていくことが重要なのです。 論語、吾日にわが身を三省す。日々反省が心磨きの不 可欠なことだと思う。 そのためには、修行ということがあるが、悟りを開く しかし、人格を高めていこう、自分の心を、魂を立派 なものに指定意向と繰り返し繰り返し努力をしてい くその行為そのものが尊いのです。
というが云われるが、これは凡人には難行である。
善きことを思い、善きことを行えば、人生は好転する。 悪しきことを思い、悪しきことを行えば、人生は暗転 する。と易経で「積善の家には必ず餘慶あり、積不善 の家には必ず餘殃あり」、これは、因果応報とか、 自業自得、身から出た錆など言い表わすが、すべてが 共用しているものであり、要するに易の「必ず余慶あ り」の人のため、世のために、利他行、慈善、徳行、 を自ら行うこと。尊徳のたらいの水例話のように、積善なのですね。 世阿弥は、「情けは人の為ならず」
の語を残した。いつの世も気付いているのですね。 では、善とは、どんな行為なのか。何を善というか。 善行、徳行、積善とは、何をさすか。調燮してみよう。 善の語は、羊の下に口、羊は生贄、口は言が二つ並ん で、部首口になった。神聖なる羊に嘘偽りなき言とし て審判されることから、羊の語が善とは、何故を考え
ます。
羊。一万年前から古代の人類社会の家畜にあった。 羊 は群れを成していて、ボス的存在はなく、おとなしく 人間に従順である。犬にさえ誘導される。古代、民族 が居住地を移動するとき共に、羊は群れて一緒だった。 そして、乳を給え、時には食用となり、一年に一度や わらかい毛は、羊毛として繊維になり、寒冷時の衣服。 羊油の食用、羊の餌飼料は先ず雑草で済む。 草取りを
してくれる。
羊皮(シープスキン、ラムスキン)として、柔らかい 皮質が、ブランド化している。角はあるが丸まっており、獣感はない。ヤギ (山羊) ともに寒冷地から温暖
地まで広く世界に分布する。 これほどに人間に貢献する家畜は他に類を見ないだ ろう。古代から現在において、人類の支援者である。 羊は、感謝の生贄とされ、羊の生き方を与えるのみ、 羊の存在、救済支援者であることが人に示されれた。 羊は、この世に召された自然の恵み、恩恵と称されて きた。羊の存在のような生き方こそ、人類のために羊 のすべてを以って尽くす。
中国漢代に漢字は羊を旁として、善という語とした。 善の働きは、徳 (得る), 恕(ゆるす)、利他(相手の 利)、恵み、そして、直である。直はすなお、直心、 忠であることで、善行いは、「よいこと」とされる。 よいこと、相手が良きことになり、有難い、 感謝、御
礼、恵み、幸福になり、平和であり、豊かになる。 物事の全てを、現象のすべてを、ありのままに受け取 る る。最善観である。真善美である。平常心である。最善観は、すべてにおいて、全てすなおに受容です。 最善観を以て生きること、最も上手な生き方である。 最善観、すべてを善であると受容れ、あるがままが良 しとする。そうなのかと理解する。恕す。助ける。援 助支援する。同情、同意、賛同をしてみる。全て起こ ること、肯定し、前向きに受け入れ、可能とする思考 化する。他の所為にもせず責めもしない。 最善の観は、肯定し、前向きに捉え、思考を可能とす る。最善は、奪わないことにある。 素直に、平常心、自分自身にも最善観をもって接する。 但し、悪行、悪癖、偽善、私欲出た場合は、戒める。 ときには、謝ることも。詫びることもあろう。 ここまでは、学びになるが、障害障壁を持っている人 間様。自らも己を知らないことだから、自覚、気付き
を求めることがある。
「我」我儘である。我儘にしたいという欲望が妨げる。 自己中心、身勝手は容易には抜けない。 強欲である。自我意識(エゴ・自己主張、自分の存在、思想に対す る執着心。)自我の芽生え、二歳あたりから五歳まで に完成するらしい。
漱石は「智に働けば、角が立つ。情に棹差せば流され る。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。 人の世を作ったものは神でなければ鬼でもない。」向 こう三軒両隣り、ちらちらする只の人たちである とつづく。「草枕」 とかく人の世は、その導き通りにはいかず、悪行はび こる、悪行滅びることなく続き、余殃ありと限らない。 現実に道理を守らず、法を犯し、規範に反し、商道徳 も守らない、この連中がはびこるのは、社会の仕組み が許している。結託する体制もある。世の言葉に悪行 の語が善きことの語の分だけ存在する。文字発祥の時 代からの悪行である、いまさらにして悩むことではな い。 性善説を説いた孔子、孟子の理想と性悪説を説い ため荀子の現実が、いまだにどちらとは軍配は上がらない。人は生まれ育ち方の中での學問の受け方、その 後の境遇の中で性分は出来上がってしまう。機会あっ て、研修や致知のような書に出会うことで、自己改革 ができるか、気付いたつもりでも、また現実の中に引 き戻されてしまうかで、生涯を正業でないことをし続 その け、終わる人もある。 孟子は、「恒産なくして恒心な し」心に余裕はやはり、物質面安定在りからか。恒は、 変わらずという意味。「若しもそれ民に恒産なければ, 因りて恒心無からん」と。
幸之助は、「物心両面の豊かさがなければ、幸福と平 和は、齎されない。」 PHP を創設事業活動している。 世直しをするということは、先ず己から正すことであ る。己の家庭家族にあり、地域社会を、直していくこ とにあり、それが国を直すことになると「大学」にあ る。
他人を変えることは、可能と考えるなら、可能の小さ な積み重ねを重ねていくこと、その延長に民衆は変わり、国を変える力になり、悪行は許されなくなる。 悪行は自ら滅び、滅んでいくことの運命にあると信じ、 心得ていくことであろう。 ととの 四書/大学に「まず家を齎えよとある。」 家からとあ る。斎とは、身を修め、先ずその心を正しうす。 その ただ 意を誠にす。そして、知を致して、物を格すに在 り。(格物致知) 自己の修養、修身、修行にある。
いけにえ
善は、羊の生贄を現わす漢字で、 羊の存在、生き様に
感謝、尊敬、崇め奉るほどの意味合いを持たせた。
それほどに善の価値があるということなのだ。 つまり、羊は漢字でその生態を表す重大な語を生んだ。 善、美、義、群、翔、差、着、羨、養、鮮、議, 羊水、 洋、様、窯、痒,姜、佯、恙、祥、儀,犠、礒,
蟻,膳、繕、
膳、など。
善/熟語にして・・・善人、善女、善才、善心、善処、善玉、善用、善因善果、善行、善良、善言、善治、 善事,善哉、善後、善後策、善政、善美、善根、善商、 善祥、(吉祥)、善導、善道、善意、善戦、善隣、善与、 善與、改善・修繕、至善、積善。人間の生き様となる 実践語。肯定のみであるが、否定語も対照的にある。
終わりに善を世界的に。 東洋・漢字の善・・・道徳的価値としての良さ、 道徳的に正しいと多くの人が是認するようなもの。 社会的規範として、是とされる存在、行為である。 社会的規範とは、所属する集団決め事、ルールのよう
なもの、
宗教では、戒律、宗教の指導、教義。善に生きると。 キリスト教では、神を全知全能、最善である。善善悪 を対照にする。欧米の倫理。イスラム教は、中東の倫 理を善とする。西洋哲学、善は倫理学による探求。
プラトンは、道徳的に卓越するもの。相対的により良いものではなく、絶対的な良さといえるもの。
西洋の善の反対概念は悪である、東洋の仏教思想での 反対概念は、煩悩、、仏教思想での善は、心の問題と した。仏教的善の概念も善であり全て善になるもの。
善の実践、生き方、行く道もすべて善で尽くす。
纏めに、佐藤一齎・言志晩録の言葉。
少くして學べば壮にして為すあり。
壮にして學べば老いてへず。
老いて學べば死して朽ちず。
若い者の怠けて勉学せぬ者、見るほど不快なものはない。 ろくな者にならぬことは言うまでもないが、まあまあよほ どろくでなしなければそれ相応の志くら のだ。 壮年になると、もう学ばぬ、学ぼうとせぬ者が随分多い。 生活に遂われてだんだん志まで失ってしまうものである。 そうすると案外老衰が早く来る。いわゆる若朽である。 能く学ぶ人は老来ますます妙である。 ただし学は心性の学を肝腎とする。雑学は駄目である。
安岡正篤
最上の善・上善如水、最善観、真善美。 悳。 恕。 論語は孔子の思いを弟子たちがまとめて、語り合い論じ合っ
て、五百章ほどに纏められ、後に論語と称した。 その纏めで孔子、第一言は何であるか。人は如何にあるか。
仁である。仁愛である。慈しみ、尊敬である。 次に禮 (礼)、忠恕、そして、徳善になる。 徳善こそが、実践、実行そのものである。 徳善には、仁、義 禮 恕、 孝、知、信が備わる。 悳(得・徳)とは、善とは、学び直し致しましようか。
徳と善、以ってどうかかわるか。
令和五年四月
宇都宮木鶏クラブ 代表世話人 五十嵐薫
併設・論語・四書五経に学ぶ実践の会
克己復礼·修己治人·自己修養 君子たるもの。恭寛信敏恵・慍良茶儉譲
人に接する時心得
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