宇都宮木鶏クラブ
chi chi 2022
Marcho 特集 渋沢栄一に学ぶ 人間学
読後感想 令和4年3月4日 大沢 栄
変わるの学び・老境の姿は善い
致知 新編集長の就任挨拶の中の言葉 「真実の体験談、 本物の言葉や教えに光を当てる」 に、期待いたします。余談です。
ふくち しげお 福地茂雄
アサヒビール友 ※P2~3 巻頭の言葉 変える勇気と変えない勇気 いまは三次元の変化の時代一一常識は非常識となり、 非常識が常識になりうる。 事象 面 (じしょうめん・事のあらわれ、事がら社会生活・人生 においては 「変わる勇気」 を、 そして理念 (りおん・ものの本当の盗 自分が良いと思っている考え方・・・一例として、管理念この事を中心に考え行動する、という基本姿勢) においては 「変えない勇気」を。
※P8~9 特集 渋沢栄一に学ぶ人間学 栄一の人生は、 《吸収》、 《建白》、 《結合》 を必死にとらえて表現 実行して、仕事と して継続可に完成させ人々を結びつけて止まない事でした。 晩年まで善い人生です。
総リード
きたやすとし
いのうえじゅん
P10~19 渋沢栄一が歩んだ道
對識作家 北康利 渋沢資料館館長 井上潤
《内容: 渋沢の世界とは、 どのようなものだったのか? なぜ 「日本資本主義の父」とた たえられたのか? 「乃公出(だいこうい) でずんば」 とは 「俺がやらねば誰がやる」 です。》
P132 渋沢は、 当時の日本のイシュー (問題点 発行) は何かと観察して優先順位をつけて、
「俺がやらねば」 という気持ちで、 イシューを、 発展 成長の発火点にした人です。
P13 生まれ育った血洗島という地区と家庭環境が、 栄一を育ててくれました。 渋沢は天保十一年(1840年)、深谷市血洗島 (ちあらいじょ)で藍玉(あいだま) の製造・販売、 養 蚕 (ようさん) などを営む農家に生まれました。 父・一郎右衛門 (いちろうえもん) 道義道徳を重ん じる厳格な人 (心の働きがすぐれ、実行力のある人物) で、 幕末から明治初年にかけて、家業を急成長させま した。 渋沢は、その父親の徹底した商売・経営のあり方を、 背中で学ぶという感じで自然に吸収 していきました。 渋沢は、 競争原理を利するために、 藍作農家の番付表をつくってみ
たり、翌年の市場の状況を予測して、 藍の葉を買い付ける手法を考えるなどして、父にほ
められ自信を深めます。 彼は、理論だけではなく実践を通して、 経営や経済、金融の あり方を身につけていった人でした。
七歳になった渋沢は、 従兄の塾にはいります。 彼に『論語』 を最初に与えたのは、父
でした。 父からの説教は、論語の一章でした。 五歳未満ごろから、 自分は論語 に触れていたかもしれないと、語ります。 母互い (えい)はハンセン病の人にさえ慈愛
を示し、親しく交流しました。 後に、社会福祉事業に目を向けていく、原点です。
「士農工商の身分制度がある中で、 父から商売は卑しいものではないことを学び、母か
らは、恵まれない人々への思いやりの心を教えられました。
P14
現在の大学の現状の一部です。 東大て、 一番人気のあるサークルは企業家 サークルですし、 2019年は東大法科から財務省には入っていません。 成績トップの 学生は、みな企業家になりました。 私 北の望みとしては・・・親が選ぶ子供に就いてほしい仕事ランキングのトップに、 公
務員や大企業が入るのではなくて、当たり前のように企業家が入るようになれば、これか
らの日本に、もっと活気が生まれてくるだろうし、 日本の子供たちも変わっていくんじゃ
ないかと思います。
P14
《環境状況に応じて柔軟にかわる》
若い渋沢は、 過激な攘夷思想 (じょういし
そう に染まり、 「高崎城乗っ取り計画」と横浜外国人居留地の焼き討ちに加わろうとしま したが、 従兄の尾高長七郎 (おだかちょうしちろう) から、計画は、 社会状況が変わり結果は悪いもの になると諭され、 計画の中止を決定しました。 渋沢のすごい所は、 決起を中止したあと、 若い有能な人材を探していた一橋家の徳川慶喜 に仕官していることです。 攘夷の立場から、 徳川幕府を批判していたにもかかわらず ひとつばしけ とくがわよしのぶ 後に将軍となる、 幕府側の慶喜に仕官する。 ふざけるな!! と言う感じですが、 渋 沢は常に環境の変化、 時代の先を見、慶喜の人格を評価して、 変わることを恥と思いませ ん。
進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンは、 「生き残る種というのは、最も強い種でも最 も賢い種でもなく、 最も変われる種だ」 と言っていますが、 渋沢は日本の偉人の中で、 最も変わることの出来た男です。
特に若い人には、 自分の人生は自分で決める、 人生はどこからでもやり直せるし、変わる 事によって人生は開けていく。 その見本として、渋沢の生涯を学んで欲しいです。
p14~15 《物事の本質まで吸収して会得する》 慶喜は慶応二年(1866年 )に十五代将軍に就任します。 その翌年「第二回パリ万博」 が開かれ、 慶喜の弟で当 時十三歳の昭武(あきたけ) が、 将軍名代として派遣されます。 その世話がかりとして渋沢 が選ばれ、 フランスに渡り、ヨーロッパ各国を歴訪します。 渋沢が二十七歳の時のこ とです。
渋沢は、 現地に行く前からフランス語を学び、率先して先進国の文化を知り、 溶け込もう とします。 国際情勢、西洋の技術や産業を奥の本質的な部分まで、吸収・ 会得しよう
として、実践していきます。
最初の寄港地である上海では、アヘン戦争で破れた中国の悲惨な現実を目にして、 日本が
このようになってはいけないと、危機感を強めます。
スエズ運河の建設現場を見て、 公共の為に、多くの人から小資本
民間の事業者が施工しているのを見て、 学びます。 を集めて大資本化を図り、 事業を行なっている事を知ります。
公共を重視する大切さ
皆が幸せになる方法が、ここにあるのだと気付きます。
公共事業への、思い入れ
の原点になったと言われます。
p15 《パリ万博で日本がグランプリを取る》 フランス到着後の渋沢は、 名所旧
跡も見学しましたが、やはり銀行や株式取引所、インフラ設備に関心を持ち、その仕組み を熱心に学んでいます。 早く欧米と肩を並べたいという、強い意識もあったのでしょ う。 その一方で、 万博で日本の出品物が西洋人に高い評価を受け、ついにはグラン プリに輝くのを見て、 日本文化の素晴らしさも自覚します。
p15 《栄一、 チョンマゲを切り、 我が姿を西洋人に近付ける。 心も変化しよう》 渋沢は、ベルギー国王が鉄鋼をトップセールスしているのを見て、衝撃を受けます。 身分に関係なく、自国を富ませるための、交渉や議論が平等に行なわれている。 これは、 当時の日本では考えられないことでした。
そうした経験が、 他のメンバーが抵抗する中で、 渋沢が率先して髷(まげ)を切るという 当時としては、とんでもない決断につながったのです。
… この辺で、 一応中断します。
学び
渋沢栄一の人生は、 自分が良いと思い定めた方向に変わることでした。
§観て変わる・・・観察して評価・理解して準備して、人とのつながりを大切にして。
§ 尊敬する人の言葉を受けて変わる・・・言葉を理解して、 確実に納得する。 実践反省を、完全に繰り返す。
準備計画
§ 変化の必要性を自分で感じて変わる・・・ 周りに興味を持って、 自ら体験もしてどのよ うにすべきか、 変化の仕方を考え、研究・準 備して、 自分に欠けているものも、 見極めた 上で実践する。
☆☆☆ 人を変えることは出来ない。 しか し自分が変わることは、 努力すれば出来る。 彼の人生は、 人や周りの為になるなることを することが、自分の喜びと同一とする人生で した。 何とも、うらやましい。 以上
月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
28 | 29 | 30 | 31 |