宇都宮木鶏クラブ

[特集] この道より 我を生かす道なし

2024年10月05日

[特集] この道より 我を生かす道なし
読後感想

この道を歩く

令和6年10月
大沢 栄

歴史に学ぶ わが国の真の姿を取り戻し、先人のご恩に報いる道

高千穂神社宮司
後藤俊彦
先人のご恩に報いて、日本が発展するには、 政治経済が日本人の考え方や慣れたやり方を 尊重して実践しなければ、 真の力とは成りにくいものです。 私たちは、 まずは日本の
歴史を 「深く学び習う心」 が大切です。
占領政策の批判だけをする時期は、とうに過ぎ去り、これからのやり方考え方を日本人自 身が議論し決定する時期が来たのです。 個人も、これに習わなければいけません。

p8~9
総リード
この道より 我を生かす道なし この道を歩く
「この道より我を生かす道なしこの道を歩く」 一一作家武者小路実篤 (むしゃこうじさねあつ) が色紙
などによく書いた言葉である。 三十五歳の時に始まり九十歳で鬼籍 (きせき) に入るまで
作家として生きる以外に自分の道はない、 この道をひたすら深
繰り返し書いている。
めていくだけだ、という思いを抱き続けたのだろう。
安岡正篤師 (やすおかまさひろしが 高弟であった伊与田覚 (いよださとる) 氏に語った言葉、 「君は僕の形骸
(けいがい) を学んではいけない。
僕は孔子の求めたものを求めて学んだ。 君は僕の求めた ものを求めて学べ」 は、 人間学を学ぶ者の指針として、忘れてはならない教えである。 お話は飛びますが、 武者小路実篤 (むしゃのこうじさねあっ) は二歳で父を亡くしましたが、 父の言葉
「よく教育してくれる人があったら、この子は世界に一人という人間になるのだが」、 こ の言葉を教わり、 実篤の中では、 自分の将来を暗示する 「予言」 となったようです。 また若い頃、エジソンの話を教わりました。 学校教育に馴染めなかったエジソンは、 母に学校をやめて独学することを許可されました。 彼には、 ずば抜けた母や親族がいる という環境があったから、 出来たことです。 エジソンは、 独学で本から学び、 自然環 境からも学びました。 日本にも来て、 語学のカベを乗り越えて学びました。 力と環境があったから出来た事です。
彼の能

p60~70
この道より 我を生かす道なし この道を歩く
福岡ソフトバンクホークス会長 王貞治さん
製座ろくさん亭主人 道場六三郎さん

料理と野球一一それぞれの道を一筋に歩み続けてきたお二人は、確実に超一流プロです。 和食の神様 道場六三郎氏、九十三歳と、 世界のホームラン王・王貞治氏、 八十四歳。 若い頃から心枝体を錬磨して並外れた実績を上げ、 後進を導きながらいまなお第一線で活 躍し、 業界のレジェンドとして存在感を放つています。
より我を生かす道なしこのみちを歩く」 そのものでしょう。
その生き方はまさに 「この道
人生の過程で成長・勝負を制する逆境乗り越える、 お二人の人間学談義から・・・・・
《人はいかにして大成するか》 《勝負を制する要諦》 《逆境に処する心得》 この三点に絞
って学びました。

P62~66
《人はいかにして大成するか》
結果ではなく過程を自らに厳しく問い
この二点はお二人に共通してい
小細工はしない、正々堂々と勝負する。 本番のためには、ベストを尽くすのが当たり前と、 心の中心にしっかりととら えて離さないのです。
p63で・・・ 道場さんは言います。 小細工はしない、 常に見られている意識を持つことが大切です。 うちの店はオープンキッチンなので、 「常に見られている意識を持て」 とよく若い衆に言 うんですが、その意識を持って立ち居振る舞いを正していくことが大事だと思います。 フキンはグチヤグチャにして置くのではなく、きちんと綺麗 (きれい) に畳(たた)んで置く。 包丁の刃はお客さんのほうに向けず、 自分のほうに向ける。 そういう道具の置き方一
つ、 取るに足らないような些細 (ささい) なことをきちんとやるかどうかによって、 印象が全 然違います。
こういったことを頭で考えてやるのではなくて、 体がパッと自然に良い動きが出来るよう に、 体でも覚えていくことが必要なことなのです。
p65で、 王さんがプロ野球との出会いを、話して下さいました。 高校は早稲田実業 に入ったんですけど、これは中学二年生の時に当時プロ野球選手だった荒川さんとの出逢 いがあってのこと。 近所の公園でやっていた草野球の試合をたまたま見ていた荒川さんが私に目をつけましてね。
ご自身の母校に入れようと何度も頼み込んでくれたわけです。
父親にけんもほろろにことわられても諦めずにです。
当時既に身長が百七十六センチあって目立っていたのだと思います。
それ当時の私は左投げのピッチャーでしたが、 バッターの時は右で打っていました。
で荒川さんが試合の途中で 「左で打ってごらん」と声を掛けてくれて、次の打席でいきな り右中間を真っ二つに割る二塁打を打ったんです。 それに感じ入ってくれたようです。 まずは、 指導して下さる周りの人に良い感じを持ってもらうことです。
に応えるための努力を必死にすることです。

p66~68
《勝負を制する要諦》
p66 ・2段 王さんです・荒川さんがジャイア ンツのコーチに入ってこられたのは、入団三年目のシーヅンが終わった時でした。

それまでの私は思うように打てないと面白くないから、 ついつい銀座に行って遊んでいましてね(笑)。 練習もそれなりにやっていましたが、 最低限の決められた時間しかし ていませんでした。 だから、 荒川さんがコーチについていなかったら、 どうなっていたかと、恐ろしくなります。
マンツーマンで練習するようになって、 それまでの自分がいかに生半可だったか、 何も練 習していないに等しかったかに気づかされました。 荒川さんとの練習が始まるのは、 全体練習や試合が終わった夜九時頃。 他の選手は皆、 十時前には帰ってしまう。
でも、荒川さんにとって時間や回数は関係ないんです。 荒川さんが 「よし」 と言わな い限り、 練習は終わらない。 だからと言って「よし」 といってもらおうと思って格好だけスウィングしてもダメなわけです。
だから、 本当に真剣にやっていくしかない。
練習が終わるのはいつも十二時を過ぎていました。 試合前も荒川さんの家に行って畳に穴があくほどの特訓を受けました。
人間扱いされていない、 とにかくむちゃくちゃに厳しい練習でした。 何時間でも、何 百本でも、出来るまで素振りをする。 合気道の寒稽古に行ったり、天井から吊り下げ た糸の先につけた紙を日本刀で切る練習をしながら、 一本足打法を習得していきました。
でも、プロというのは、 それくらいやらなきゃならない世界なんですね。
普通の練習しかしていないから、 普通の選手にしかならなかったんです。 三年目の十月から始ま って丸八ヵ月、四年目の七月にようやく結果が出るようになり、 そのシーズンは前半の三 ヵ月でホームランがわずか九本だったところ、 七月以降に一気に量産して二十八本放ち、 この年に三十八本のホームランを打ってホームラン王と打点王の二冠を獲得しました。
p66・2段 道場さん。 『料理の鉄人』 という番組のおかげで、 料理が圧倒的な強さ で表舞台に押し出されました。 私の対戦成績は、 二十七勝三敗一分で和食の料理人に は全部勝ちました。 テーマの食材が発表てされそこから 「よーい、ドン」 で制限時間内に料理をつくります。
ば結果を残せません。
そうすると、どうしても心が乱れます。 あき無心になれなけれ 昭和の大横綱・ 双葉山が六十九連勝して安芸の海に負けた時「我いまだ木鶏たり得ず」 と言った逸話は有名ですが、 木鶏のごとく何も考えずに無心で
挑めば、材料が出された瞬間に、 アイデァが閃きます。
本物の地力があれば、 いつだってチャンスをものに出来ます。 競争相手だって必死なのです。 その相手に勝てる自信が持てる、 実力を自分のものとすることです。

p68~70
《逆境に処する心得》
p69・一段~ 二段 荒川さんが抜けられた最初 の年はホームラン王になったものの、 次にはスランプに落ち込みました。 調子が悪く なっても、荒川さんが直してくれるという甘えの中で野球人生を送ってきました。 調子が悪くなったときのスランプの脱し方を自分で掴んでいなかったんです。
もがいて、もがいて、 もがきぬいたところ、 一年くらい経った時に少し手応えを感じて明るい光が見えてきました。 とができたんです。
そこからいままで成し得なかった三冠王を二回獲得するこ
ですから、 逆境は次のステップに進むために必要不可欠な跳躍台であって、 そこで苦労し 逃げずに努力していけば、いままでよりも高いところに到達できるのだと教えられました 私の場合は野球しかありませんでしたから、逃げ道がなかったおかげで、 道を踏み
外さずにやってこられたと思います。
期待されず、 努力しない人に逆境は訪れません。
p69 2段 道場さん・三十代半ばの時に、オーナーから「うちの重役になってくれ」 と言われて、「いいな」 「嬉しいな」 と思っていたら、 「ちょっとお金を用立ててくれ」 と言われたので、 何の疑いもなく貯金と自宅を担保にしたお金、 大金五百万円を貸しまし た。 ところが、 一年後にその会社は不渡りを出し経営者は二千万円の滞納を残して、
夜逃げしてしまいました。
自分は重役ですから、これをなんとか返していかないとい
けないわけです。
大昔の、二千五百万円です。
まいったなと思っていた時に、「ああ、そうだ。 僕にはお客さんがいるんだ」、と。
お客さんに可愛がられていましたから、 同じ債権者仲間と二人で 「新とんぼ」 という店を立ち上げたんです。ちょうど同じビルの一階上のフロアが空いていて、大家さんに話 したら、 「道場さんがやるんだったら」ということで、保証金や貸料を融通してくれました。常連さんを中心に開店当初からたくさんのお客さんで賑わい、初年度から利益を出すことができました。
三年目に共同経営をやめて株を売却し、 それを元手に昭和四十六年、 四十歳の時に 「銀座 ろくさん亭」 をオープンしたんです。 以来、お陰さまで黒字経営を続けています。 僕は夜逃げをした経営者に恨みを持っていないんです。 憎んだり悲しんだりしていても何彼にも止むを得ない事情があったんだろうと。 先ほどの王さん にもならない。。 のお話と同じで、 この逆境を神様から与えられた試練だと受けとめ、一段ずつ乗り越えよ うとすることで、 力がついて成長できたのだと感じています。
そうです。 その人の人生の工夫と努力は信用となり実力となり、 例え逆境に出会って 以上 も、一段の高みに昇るためのハシゴの役にさえなってしまうのです。

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