宇都宮木鶏クラブ
特集
倦まず弛まず読後感想
令和5年5月10日 大沢栄
p2~3
孔子様が弟子にさとした言葉です。
ちがいや失敗に対して謙虚に反省し、自ら責任を取ります。
[巻頭の言葉] 君子は諸を己に求む 小人は諸を人に求む。
つまり、上に立つ立派な人物は、 周りに起きたま しかし、未熟で卑怯な者
君たちは、 決して責任 は自分のまちがいや失敗までも他人のせいにしてしまいます。 逃れなどしてはいけませんよ。 責任逃れはうまくいきません、 自律的で信用される生
活こそが大切です。
p7 [特集] 倦まず弛まず
総リード
子路が孔子様に、 政治の心得を尋ねました。
孔子様は、弛まないことだ「先頭に立っ 子路がもっと て働き、一緒に働いた者に対してご苦労さまの言葉をかけることです。」
他には?と尋ねると、 「うまず、 つまり先頭に立って考え行動して、部下の働きを評価し
上の者に、たびたび評価されると人は必ず頑張ります。
て誉め続けることです。
p8~17 人類の未来を拓く がん治療への挑戦 《対談》
北尾吉孝
アメリカ国立衛生研究時主任研究員
小林久隆 ひさたか
☆五年以内には、八から九割のがんが治るかもしれないのです。
がん細胞だけを破壊し、 免疫細胞を活性化する がん細胞だけを破壊し、免疫細胞を活性化する
でに実用化されています。 世界に先駆けて日本で承認され、 保険適用が始まりました。
応拡大されれば、 8~9割の固形がんを治療でき、 転移や再発もなくなるというのです。
そんな夢のような画期的治療法がす
「第五のがん治療」 と呼ばれる “光免疫療法” です。
さらに研究が進展し、 適
P18~24
いまも料理が恋人この道に終わりなし 両親が説いてくれた人生訓を反芻 九十三歳は言いました。 両親は常日頃から、 人としての生き方を説いてくれました。
道場六三郎 銀座ろくさん亭主人
して育ちました。 「神仏は見てござる。
親や先生の前では真面目にやって、見ていないと手を抜く人がいるけど、陰日向
彼 どんな時も一所懸命やらなきゃいけないよ」 、 等などです。 があってはいけない。 の素晴らしい所は、 それを聞き流さず、きちんと受けとめて自分のものとしている所です
道場さんは、良い人にも出会いましたがダメな人にも出会いました。
彼は災難さえも飛躍の転機にしてしまう、 心構えが出来る人でした。
いろいろありましたが、 昭和四十六年、 四十歳の時に銀座ろくさん亭を開店しました。
空きビルの九階です。
当時の常識では、全く不利な条件ですが、 私は料理がおいしく てサービスが良ければ、 必ずお客さまは来るという信念を持っていました。
おかげさまで開店以来、 赤字を出したことはありません。
道場さんは、頼まれると色紙を書き ますが、その時の言葉は 《料理は想いやり》 です。
p26~29
名僧 鈴木正三に学ぶ勤勉努力の精神
鈴木正三会会長 小林 誠 小林誠 大沢の知る所では、正三は「天草・島原の乱」 の後、 彼の地で幕府の代官となった鈴木重 成 (すずきしげなり) の兄で重辰 (しげとき・正三の実子で重蔵の養子) と共に、 鈴木正三 重成・重辰の三名で天草 成です
(しげとき・正三の実子で魔族の糞子)と共に、鈴木正三・重成・重辰の三名で天草 島原地方の復興に尽くしました。 特に重成は代官でありながら切腹して十万石を実 状の三万石にして下さいと訴えて実現しました。 三公は、 現地の人々により 「鈴木神 社」 に祀(まつ) られています。
正三は元は、二代将軍秀忠に従って、 立派な武将二人を討ち取る等活躍しましたが、 首を 正式に届けず、人を殺める生き方をしたくないとして、当時は武士の勝手な出家は許され しかし、秀 ないのに勝手に僧になったので、 切腹だ家禄没収だと非難されました。 忠が 「正三は隠居したまでだ」 と理解を示したので、お咎めなしで出家できました。 正三は、百姓仕事もお金儲けも商売も世の中を豊かにするためなら良い事だと、 皆に説きました。
p30~33
西島暁子 患者様一人ひとりの回復を信じて 患者の自宅を訪問すると、 状況から病気の真因に気付くことがあります。
ソレイユ訪問看護ステーション
p33 精神科訪問看護というのは、なかなか目に見える成果を得がたく、 またせっかく
けれども根気強く、 長い目 改善しても症状が再燃してしまうことも珍しくありません。 で患者様に向き合い続けていく中で、 私は小さな変化にも大きな喜びを感じられ、看護の 質向上にもつながっていきます。
p34~38
すべては、世界に誇る 「国酒」を飲んでもらうために
五代目元 久慈浩介
p34 南部美人は、日本国内では金賞常連で、 世界最高級のワインコンテスト IWC で 〈チャンピオンサケ〉 に輝きました。
P38 世界一になったら、 次の年から、 素材は変えず造り方の改良に移りました。
P40~43
P43
ません。
書こそ我が人生 命ある限り歩み続ける 書家/正筆会会長 黒田賢一
書のよさを決めるのは品格、 作品は白の美しさが表現できないと、 秀作とは言え
自然界や人間社会に陰陽があるように、相反する要素が同居しバランスを取
れてこそ、そこに書美が生まれます。
空間の美を表現することが必須です。
文人画家で書家でもあった池大雅は 「書かない
白を描くのに苦労する」 と、言っています。
P44~47
狂言の力で日本に活力を取り戻す
狂言版
茂山千三郎
P45 狂言には、 和儀 (わざ)という言葉があります。
日本人がつちかってきた体の中
心軸を整える歩き方、丹田をきたえる呼吸法や発声法など、 私たちが健康に生きていく知
恵が、 狂言には沢山詰まっています。
歳九十歳を越えてもなお生涯現役で舞台に上がっています。
しやすい方法で発信したら、 どうなるでしょう。
化を観ると、 大きな成果が期待できそうです。
実際、 狂言師の多くが怪我も病気もせず、 八十 この事実を外国人が理解 今の、外国人の日本旅行に対する変
p48~56 人間力を高める教育ここにあり 《学内木鶏会は現代の寺小屋》 対談
東洋大学体育会ラグビー部監督
福永昇三 いまは 『致知』 の学びを通じて 「際 (きわ)」の強 「際」 といわれる部分は、 勝負際・土俵際など野
札幌日本大学高等学校 硬式野球部監督 森本琢朗 たくろう
p50 野球の森本さんは言います。 さを養うことに力を入れています。
球をやめた後もその際」で力を出せるような人間に育てたいという思いで、 指導に当た
っています。
p58~67
p59
二宮尊徳の歩いた道: 対談
二宮総本家当主 二宮康裕 作家 北康利 自分で考えた理論と行動力で六百を越える村を窮乏から救った農政家・二宮尊徳 (金次郎)。 常に率先垂範で農村改革を推進した尊徳に、 私たちが学ぶべきものは多 い。 特記すべきは、 金次郎の遺体は小田原ではなく、 日光に埋葬されているのです。 金次郎は、藩主には理解されましたが、 支配者の武士には、 メンツもコダワリもあり、 理 解されずに、受け入れられず、 今だに尾を引いているのです。
p60~66 金次郎は苦しみ悩みましたが、 持って生まれた潜在能力とたぐいまれな努 力は、藩主が認め引いたこともあり、 まず農民側に喜びをもたらし、 藩政に及ぼうとしま したが、 封建武士は、心から金次郎を受け入れることはできませんでした。
p66~67
ました。
金次郎は、小田原に留まらず幕末の下野で私財を投出し、 事業を完成させ 「目で教え、口で教え、 体で教える」、 人のために尽くしきった人生です。
以上