宇都宮木鶏クラブ
致知読後感想メーン発表者 横塚 高根 会員です。
第335回宇都宮木クラブ和5年8月号の感想発表会は、宇都宮市民活動センター参加者 8名で行いま
した。 読後感想発表進行リーダーは横会員です。 特集は「悲愁を越えて」 横塚会員は、この特集題すべて読み そのすべてを書き記した。 全ページ読んでいることになる。 者のすべてのページには、人間にこれほど不幸な悲愁となることが起こるのか。 原爆被爆に始まり、 その副作用 から流産を二度も。 事故で両腕を失う。 不治の病にかかる。 そういう逆境、災難に対して、 どうして来たか、乗り越 えて来たかを捉え、 抜き出してレポートしている。 小林一茶の生涯が悲愁のに一生であった。 悲愁が俳句に現れる ことも感じた。悲しい出来事を受け容れ、全てを昇華する覚悟、心が強い、 心が支えるのではなく、 自分で磨き上げ ていく。 「めでたさや中位なりおらが春」 「吾と来て遊べや親のない雀」 「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」 一茶。 古来武士が持つような物事に動じない強さは臍下丹田に宿るとされ胆力と呼ばれていた。 悲愁を乗り越えての特集に えだけの人間が生きるということに、悲愁と感じるものがあるという、おそらく多くの人たちがその境遇に会い今な お、苦しんでいるのかとも考える。 TVで観た、 野生の動物が両後ろ足を傷つき、 その足を引きずるようにしても生 きていく。生き抜いている。 世のため人のためにできることを見つけ、これをやり遂げる生き様。 事業収益にまで成 功者になっていく。 横塚会員の発表は、 全部を読み。 全部を書いた。 メーン発表者として、一人一人の会員とも会 話しながらスムーズに進行しているところ、リーダー役、 初とは思えない進行でした。
お気に入りの論語一章発表 「駒ヶ嶺智広 会員」 子曰わく、朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり里仁第四.p41.
朝に人としての真実の道を聞いて悟る事ができれば、夕にして死んでも悔いはないと。訳されている。 ドラえもん展では、人はどのよう に生きたらよいのかがわかったら、死んだとしてもかまわないんだ。 人の生きる道を知る。 生きていてどこの時、 年齢の時に分かるものだ ろうか。朝から夕までの間に知れるものではないだろう。悟れない。だから、人の道、その道理などは一生涯かけて学び、尋ねるものなん だという。 駒ヶ嶺会員はそこまでを捉えております。実はこの章句語釈だけでも難しく、孔子の意までは解されとは、奥深いですね。人の 道、道理とは、尋ねてみましょう。
琴線に響く触れる言葉・・ 鈴木 良男 会員。 【任運騰騰】仏教・
無理をしないで、 因果を天命に任せること。 今ここを、 自分を生かし、 出来る限り精一杯の善行で明るく活発にす
あること。 天命に任せ、 あるがままに善行で生きる。 天地自然の摂理に順う生き方を探索してみれば、 樂楽な人生、 生き方になるかも。会員のものの鍛え方は、常に心をとらえている。 耳順う。
当月号からの琴線に響いた言葉・・P58.4段目後半 《好信楽》 江戸中期・国学者医者本居宣長の言
何かを為し遂げるためには、まず自分自身がそれを好きでなければならない、そして、ゆるぎない信念があれば事は成就する。 然し大事なのは、楽しみながら取り組む心の余裕を持つこと。 精神力である。 論語には、 雍也 P27. 「子曰わく、 これを知る者は之 を好む者に如かず。 之を好む者は之を楽しむ者に如かず。」 本居宣長は、 孔子を仰ぎながらも儒教を批判した。 後に、 福澤諭吉が、 儒教批判者であった。 すべてでなく、 よろしくないことが儒教にはある。 孔子の意に反する世情、歴史をいう。 二人の共通する提 え方の様である。 この四書五経に云う儒教より、 それを悪用している社会層への非難の言と理解する。