宇都宮木鶏クラブ
特集 悲を越えて
読後感想 令和5年8月4日
大沢
私、 大沢は感じています。 人は四苦八苦の川で、もがきます。 でも、ほとんどの 人は、 素晴らしい岸に、 辿り着きます
。 そこでなら、悲しみも苦しみもありますが、 発見できないのは、 見方が足りないか、まだ気
必ず自分の人生目標を発見できます。
付かないだけです。
目標のある人生は充実してきます。
8月号から、 良いヒントを見つけましょう。さあ、読書です。
p2~3
[巻頭の言葉]
士は以て弘毅ならざるべからず
『論語』 泰伯第八
文
*子が孔子様の一生を学び、 自分に続く門弟に伝えたかった核心。
子曰く、「人の道を求めるという志のある者の見識や努力は大きく、特にその意志は強 でなければならない。 その負担はく、 達成までの道程は遠く、時間がかかるから だ。 ことに仁の実現、 これは実に重い。 死ぬまで続くのだ。 これほど遠い道 があるだろうか」。
*ケネデイ・アメリカ合衆国第三十五代大統領も、尊敬した日本の政治家。
求められて米沢藩主となった上杉鷹山。
日露戦争後の1908年、 内村鑑三は世界の人々に日本と日本人をより正しく理解してもらいたいと考え、 「代表的日本人』を出版。
主人公五人の一人に上杉鷹山の名 が挙げられた同書を、ケネディは読んでいたのです。
求められて米沢藩主となった上杉鷹山は、困窮する米沢藩を見事に立て直しました。 上杉鷹山の政治家・経営者教育者 人徳家としての強い意志、 五十年以上にわたる苦難 の、 しかし充実した生涯について、 内村は詳述しています。 余談になり
数ヶ国語に訳された同書
は、洋の東西を問わず感動を呼び、世界的なベストセラーになりました。 ますが、 ケネディ家は世代を越えても、大切な人との交流を続けます。
p8~9 特集 悲愁を越えて
総リード
* 確かな親の愛を感じ取った子は、 苦難の中でも強く成長できる。
小学一年生の男の子が、 亡き母への思いを綴った作文です。 要約します。
ぼくはあかんぽうのとき、おとうさんをなくしたので、 きょうだいもなく、 おかあさんと ふたりきりでした。 そのおかあさんまでが、 ぼくだけひとりおいて、 おとうさんのい るおはかへいってしまったのです。 いまは、おじさんおばさんのうちにいます。 でも、ぼくにもおかあさんはあります。 いつもぼくのむねのなかにいて、ぼくのこと みています。 ぼくのだいすきなおかあさんは、おとなりのミイぼうちゃんやヨッち
んのおかあさんより、一ぱんぱんよいおかあさんだとおもいます。
おかあさん ぼくはりっぱなひとになりますから、 いつまでもいつまでも、ぼくのむねの
なかからどっこへもいかずにみていてください。
* 俳人小林一茶は悲をこえて大成した。
一茶は三歳で母を亡くし、 不幸な幼少年時代を送った。 五十二歳で二十八歳の妻を
めとり、 三男一女に恵まれる。 だが、幸せに満ちた日々は長くは続かない。 やが 四人の子が次々と世を去り、 六十一歳の時、ついには、はるかに若い妻にも死なれるの だ。 不幸の極みのような人生である。 一茶は、愁を越えのです。
* 致知誌に登場した、 お二人の言葉から、解答を探し出したい。
1. 石川不二子さんの短歌から。 《しずかなる建京のごときものあれどわれをかかるものの餌食となさず≫
2. 玄 さんの言葉。 《 すべてのことは自分が何かを学び、 深まるために起こる》
p10~19 悲しみは いつか 恵みに変わる
対談
西館好子
* 命の根源である子守唄の伝承を通して、 虐待防止やシングルマザー支援などの活動に ての道を歩むようになったカトリック神父で教師 でもある古巣馨氏。 お二人は長年、 多くの人の悲しみや愁 いに寄り添いながら、その未来を拓くため に献身的な歩みを重ねてきた。 自身もまた様々な人生の悲を越えながら生きて きたお二人が、語り合う幸せへの道標
取り組む、 日本子守唄協会理事長・西館好子氏。 思わぬ出逢いから、聖職者とし
P12
夫だった井上さん (作家 井上ひさし氏)と三人の娘でオーストラリア
で生活していた時、シングルマザーが生活する女性村を訪ねたことがありました。 そこ には小さな屋台が並び、 手づくりのジャムやケーキ、 絵本などが売られていて、 そこでい きいきと生活する女性たちの姿がとても印象に残っていたんですね。 そんなことも あって、 昨年、群馬県下仁田町の過疎地にある廃校を借りて 「女性村」 を開設しました できれば、女性たちだけで自主的に運営したいのです。
p12 「希望の伝承」 1865年3月17日、 長崎の大浦天主堂でバリ外国宜 教会の司祭と上の潜伏キリシタンが出会う 「信徒発見」 という出来事がありました。 この出来事をテーマにした劇を、地元の信徒たちと一緒に上演しています。 潜伏キリシタンは「七代経てばローマから神父がつかわされ、 そうすれば大きな声でお祈
りができる。 そうすれば自分たちをさげすんでいた人たちが、 道を譲ってくれる日が
来る。」
という言い伝えを信じて、 実に250年もの間、 神父との出会いを待ち続
けました。
なぜ伏キリシタンは一人の指導者もいないのに、この大切な信仰を親から子へと手し 続けることができたのか。 「希望の伝承」 がこの劇の主題です。
p19 * 《辛いけど幸せ
p192
私の家庭の話になりますが、 五島の実家はもともと七十人余りの漁
夫を抱える元でした。 しかし、私が小学三年生の時に倒産して、 当時で十億円もの
負債を抱え、家族は赤武の生活に入りました。 父は酒に溺れるようになり、母は朝六 時に家を出て、 土木作業員として働きながら六人の子供を育てました。
アル中だった父が六十を過ぎた時、 私は世間体をはばかって強制的に入院させました。 ほどなく父は脳梗塞を患い、口はきけなくなり、 歩行もできなくなりました。 母が介護してから二年、 主治医は「もう長くありませんから、最後は家に連れて帰りませ んか」 と進言しました。 二年間空き家にし、 白アリの巣になっていた自宅に連れて帰
りました。
退院したその日、孫娘から真っ白な胡蝶欄が届きました。 その晩、母が電動ベッドを 起こして父に重を食べさせながら、 何気なしに、 「とうさん、この胡蝶とオリ 母)とどっちが綺麗かか?」 と迫りました。 父はハッとして、腕を必死に伸ばし 「お まえ」と言い、重をパッとはきながらクククと笑いました。 私に電話してそのこと を話した母に、「いまはしあわせじゃろ」と言うと、 「そうね、おおきにな」 言いました
父は、その一月後に天に帰りました。
年を重ねて隙だらけの顔になったとしても、 自分よりもっと大事なものがあると思 える人は幸せですね。 逆にそれがない人は晩年は辛いと思います。
以上
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