P10
特集
印象に残ったのは3つの大切なものという部分です。
人が生きていく上で欠かしてはならない大切なものが三つ
ある、と釈迦はいっている。
一は人生の師
二は人生の教え
三は人生を共に語り合える友
と書いてあって、この「わが人生の詩」の「詩」のところを吉村光子さんのお手紙に置き換えると、、、致知を読んだだけだと届かないなと、、、この木鶏クラブの実践を通して学ぶ事が大切だと気づきました。
吉村光子さんのお手紙
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いまから七十七年余前の一九四五年八月九日、一発の原爆 により現在、長崎平和祈念像が建立されている場所から僅か 十数メートルも離れていない場所が当時の橋口町二五四番地 我が家があった場所で、すぐ前の道下が岡町で川内叔父さんの大きな家がありましたが、松山町の黒田伯父さんの家も 八千代町の岡本叔母さんの家も駅前の橋本家も、すべて一瞬 閃光のもと焼き尽くされ跡形もなく、誰一人にも逢うこと さえなく、その安否さえ知ることができず、三日三晩飲まず 喰わずで尋ねさまよい、力尽きて鉄道線路によじのぼりしば らく体をやすめて違うようにして勤務先の大橋町三菱兵器製 作所に戻り、そこで血まみれになりながら陣頭指揮をしてい られた島田労務課長に逢い、思わず涙がどっとあふれて何も 言えず、よかったよかった、よく生きていてくれたと喜ばれ て、そのまま受付をまかされ、九死に一生を得たような気持 ちでした。
それからは毎日、わが子はわが夫は親はと尋ねてくる人ご とに住所氏名の記帳、夜は怪我人の世話、広い工場の中で、 たった一棟のコンクリートの外壁だけ残った本館の中ではい まにも息絶えそうな人たちがひしめき苦しみと戦っている。 おしっこと泣き叫ぶ女の子にあわてて洗面器を持っていって も火傷がひどくてさわることもできない。目に一杯涙をためて詫びるように私の手の中へ尿をする。いいのよいいのよといいながら、私も泣けてくる。
外では中には入れなかった人たちが地面に敷かれた毛布や カーテンの上で、もう傷口には大きなウジ虫が這い回ってい る。痛いよう、取ってくれーっと、ウジ虫がバイ菌や膿を喰 ってくれるんだから取ったら駄目っと女医さんが奥から大き な声で。まるで地獄です。毎日のように亡くなってゆく人た をまとめて広場で火葬、翌朝は骨を拾ってバケツに積みあ げてゆく。もう泣く涙も出ない。
そうした毎日の中で自らも勤務中、爆風と共に窓ガラスが 粉々に飛び散って頭や顔、腕につきささり、それを自ら引き 抜いて、持参していた赤チンキを毎日塗っていたが、いま頃 になって熱を出し、やっと女医さんからきちっと手当をして いただき安心していたのに熱が下がらず、課長が心配して休 養をといわれても帰る家もなく、課長のおかげで随分いろい ろな所でお世話になり、当時を思う時、不安のどん底で助け ていただいた人びとも数知れず、いまは存命しておられる人 もありません。
「これからも『致知』を心の師と仰ぎ、どんなことがあって も人を大切にする心があれば、天は味方してくれると信じ、 『致知』と一緒に生きていこうと思います」
致知
P32
「幕末の志士 橋本左内「啓発録」に学ぶ」という事で瀬戸謙介さんの記事を読みました。
立志式の話で、ウチの子も14歳になったので、、、立志式があったという事もあって読んだんですけど、、、
親から立志式を迎える子供に手紙を書くという話が学校からあって、、、「そのままの自分を信じて欲しい」というような手紙を書いたんですが、、、、
なかなか難しい状況で時期を見ながら手紙を渡しました。
読んでいくと35ページから子供たちの決意文が書いてありました。
一番印象に残ったのは最後に書いてあった瀬戸さんの言葉で
気がつけば、瀬戸塾を始めても 四十年以上になります。 子供たちの決意文を読む度に、自分は彼らと向き合うことで成長させてい ただき、いまがあることを実感しています。
これは、本当にそうだなと思って、結局子供と向き合うって、自分と向き合うことになる、、、というか向き合わざる終えないことになる。、、、だからこれを読んだ時に、自分は子供に成長させてもらってるんだなと思いました。
カテゴリ:致知
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